2014年2月28日金曜日

努力することと能力

おかあちゃんに「あんたそんなにさぼってるとバカになるよ、努力して勉強して、一人前の人間になりなさい」そんなことを言われて育った。

努力することは常に善であり、努力した人が報われるのは当然だ。努力人は、いい仕事についていい給料をもらって、素晴らしい家庭をもつ権利がある。偉い人やトップアスリートはみんな努力している。努力しない怠けものはろくでもない人間だし、報われなくて当然だ。子どもなんか持つべきでないし、野たれ死んだって仕方がない。努力しないやつらのために高い税金を払うなんて馬鹿げている。動物だって、死にもの狂いで獲物を捕ってこないやつは早晩死んでしまう。これは、生物界の常識。だから、努力こそがその人の価値を決めるのだ。

努力することが自然選択の結果だというのなら、努力しない遺伝子はとっくに滅んで、人間はみんな努力する人ばかりなハズなのだが、なぜだか努力しない人というのはけっこういる。この記事は、この努力=善というガチガチの価値観にわずかばかりの異を唱えようと思って書いてるわけだけど、実際私だって、努力しない同僚や、いい加減な仕事でお茶を濁す取引先のダメ社員にイラついて、「もうちょっと頑張れよな」などと内心思いながら悪態ついたりしているわけで他人のことは言えない。「努力」ということが、体の芯のあたりに染みついているのだ。

ただ、どうも自分自身が「努力」というものの中身を、漠然とさせたままで、丁寧に吟味してこなかったんじゃないかと思う。

まず考えてみたいのは、そもそも我々はなぜ努力するのか、努力するという行動を支えるものは何かということだ。これは胸に手を当ててみるとわりと明らかで、努力ができるのはその努力の結果得られる報酬が存在するから。報酬は、現金、名誉、美女、といった生臭いことでもいいし、自己満足だって構わない。そのような報酬を得られるという期待が十分に持てて、なおかつ過去に努力が報われたという甘い経験を持っていること、これが努力の条件だろう。たとえほとんど無駄な努力とわかっていても、報酬が魅力的なら成功する確率が低くても人は頑張るものだ。

たとえば、とても素敵な女性がいて、その人とどうしても付き合いたい、自分のものにしたいと思ったとしよう。その人に好かれたい一心で、毎朝毎晩時間をかけて歯磨きをしたり、髪や服装を常に整えたりするばかりではなく、その人が通る時間を調べ上げて偶然でも一緒になるように早起きしたり、友だちになれたら、さらに好かれたい一心でさまざまな「努力」をするだろうね。こんな努力は努力のうちに入らないし、本人だって努力だとは思っていない。感情につき動かされた強い衝動が、動かしがたい確固たる動機となって努力を見事に支えているわけだ。

あるいはもし、ナイフを持った男が突然襲ってきたら?「命守るべし」という根源的な欲求が、あなたの能力を飛躍的に高め、自分でも信じられないような速度で走ったり、高い塀を飛び越えたりして、生き残るための大きな努力を払うよね。努力というのは、その報酬によって明らかにドライブされている。努力が報われないということは失敗を意味するわけだ。失敗が続けば、努力することへの疑いにからだを麻痺させてしまう。これが小さな「成功体験」を重ねることの大切さ。成功体験を持っていない人に努力しろと言っても無理な話だ。

しかし、そもそも「努力」は、「がんばれ」ば、誰にでもできることだろうか。たとえば、1ヶ月後に数学の試験が迫っているとしよう。あなたはいつも人付き合いのいいコミュニケーション能力の優れた人だ。仲間に囲まれているのが好きだし、誘われれば喜んで呑みに行く、宴会でもいつも場を盛り上げるそんな存在だ。そして、今日も誘われた。試験はあるけど、そんなことで断るのは嫌。そして出かけてしまう。

今日も勉強時間はほとんどとれなかった。友人と過ごすのが楽しいあなたが試験に向けて努力することは相当に困難だ。仲間の協力が得られるということもあるかもしれないが、最後は自分で勉強するほかない。数学なんて特に。一方、もともと数学が好きで人づきあいが苦手な人の場合はどうだろう。数学の勉強を努力とも思っていないあなたは、毎日コツコツと電車の中で問題を解いている。努力というよりも、ほとんど趣味なのだから。このように考えてみると、努力することの中身には得手不得手、好き嫌いがある。そして好きなこと、動機の強いものならば努力は容易だけど、好きじゃないことはなかなか頑張れない。

さらに深めてみるとそもそも「努力」というのは、粘り強くひとつのことに取り組んで、時間をかけて自分のものにしていくという「過程」だと言える。そのためには、「粘り強さ」つまり注意力を維持しながら、自分でコントロールする能力が必要であるということが分かる。注意力にはいろいろなものがあるけど、ここではまず注意を持続する能力が一番だ。飽きっぽいのはだめだ。それから、焦点的にいまやっていることに入りこんでいくという意味での注意も必要。何かに心底のめり込んでいる時というのは、短時間でもひらめきが生まれたり、何かが進歩したりする瞬間だから。そういう時間も大切なことがある。しかし、注意力には個人差があるのだから、「努力する」というのもひとりひとり違った能力の一つであると考えられる。「天才は努力しない」などと言うけど、これは努力には「時間」だけでは測れない「密度」のようなものがあるからだろう。つまり「努力する能力」「良い努力をする能力」というものがあるのではないかということだ。

もし、この努力する能力が生得的なものである、あるいは成育歴からくるものであるとすると、努力しない人を責めるのは酷な話だ。その人は努力する能力に劣っているか、さもなくばよい努力をする成功体験をせずに来てしまったのだから。人間は平等な存在ではなく、心理学者ヤーキスの言うようにどんな子供でも医者になったり大泥棒にできるわけではない。「努力しないのは自分の責任だから、努力しない本人が悪い」などというのは、努力が好きなガンバリン星人の言い分にすぎないのだ。

努力することに価値がないし、努力なんてくだらないと言っているのではない。努力するということはそんなに単純じゃないということ。いやむしろ、いかにして上手に努力するか、努力という言葉を習慣という言葉に置き換えられるかが勝負かもしれない。そうすると、今度は努力を習慣にする能力なんてのが浮かび上がって堂々巡りだ。

仕事をする努力を放棄して、ソチオリンピックをダラダラ見ながら、努力と能力ということを考えてしまった。能力の運命的な不平等に愚痴をこぼしていないで、仕事を習慣にする努力の努力に戻る。頭が真っ白になる前に。

2014年1月24日金曜日

本音と建前

胸に手を当ててみれば、自分のような粗雑な人間でも、本音と建前を使い分けているということに少しの鼓動とともに気づかされる。最近仕事で会うのは大企業の人が多くて、建前を大事にする人たちだ。建前がスーツを着て、建前がしゃべっているのではと思うほどだ。裸で生きていれば楽なのだけど、そうできなくなった人間は服を着て、アクセサリーやらコロンの匂いをまき散らかしたりして裸を隠す。スーツで主張する。それは仕方のないことだと思うのだけれど、匂いがきつすぎてときどき嫌になってしまう。裸がいいのに。

もちろん、こっちにだって小さな建前はある。建前を守ろうとして、余計な仕事をしょい込み、深夜まで仕事をする。ばかげたことだと思うけれど、それでお金を貰うのだからいたしかたない。しょせん世界は金で動いているのだ。おれだって、金で動いている。

しかし、世界にはそんな建前があまり大きくない人種もいるらしいというのが、NHK BS の海外番組などを見ていて感じることだ。日本人には建前が多すぎるのではないか。本音でやり取りすれば、様々なムダはなくせるのではないか。お金は少なくても、幸せに生きることは可能ではないかと思える。

建前にさんざんやっつけられた後なので、少しづつ建前の服を脱ぎ去って、あるがままの自分として生きていく道を探してみたいと思うようになった。これから、だんだんと暖かい季節になってくるしね。

2013年11月18日月曜日

うそは悪いことです

うそは悪いことです。

うそつきは信用ならない。
うそは泥棒のはじまりだ。

そう育てられ、うそに痛みを感じるようになる。
でも、うそをつかずに生きている人がいるわけがない。

ではどうすればいいか?沈黙だ。

口を開けなければ、うそをつく必要がない。
沈黙は金というから、悪いイメージもない。

すぐうそをつくヤツと沈黙の男。

たとえば、釣りバカ日誌のハマちゃんと、ゴルゴ13を考えてみよう。
どちらが憎めなくて付き合いやすく、どちらが悪い奴だろう。

そんなことは明らかだ。ハマちゃんはうそをつくから圧倒的に悪い。

古い友達の坂上君は不倫しているが、奥さんには完全黙秘だ。うそを言わないように心がけているから、彼はとてもいい奴だ。こっちが弱みを握っているから、飯をおごってくれたりもする。

言うまでもないが、小説家、脚本家、映画監督、お笑い芸人、歌手、詐欺師、政治家などは悪い奴らの筆頭で、信用してはいけない。

書き忘れるところだった。ブログ書いてるやつも大抵はうそつき。